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(1981年春、フィルムアート社「シネマワンダーランド」所収)

 

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1、増村映画の魅力とは?/ホンネを正面から主張するヒロインたち

  

  過日、日本テレビにおける柴田恭兵/榊原郁恵共演の「蒼い絶唱」1・2回、その張り詰めた情感はなかった。

   ----ラストシーン、降りしきる雨を窓辺に見やりながら「もっと降れ!降って降って降りまくれ!」 

  と絶叫する柴田に、 いかなる辛苦にも敗れぬ、青春に生きるものの勇気と逞しさが感じられた。

   以後この連続ドラマは全くドタバタに堕してしまうが、最初の2度、これだけで劇場用に編 集し直してもいいくらい、

   人間がイキイキとみずみずしい佳篇であった。

  そのスターターの演出者が増村保造である。氏としては手慣れたシワザであったに違いない。

  けれども、氏のもうすぐ四半世紀になろうという営為、いかなるエコールにもなり得ず、

  むしろ砂漠 に花を咲かせるが如き困難の色を深めて いる活動が、

  いまも一瞬のゆるみもなく続けられていることを 知るのは私にとってきわめて得難いことなのである。

  かつて大映時代、氏は年間3・4本の登板をコンスタントに守り、

  それを追うことが、私の数少ない映画体験だった時代がある。

  映画をほとんど見なくなったときでも、増村保造は見ていたのである。

  私にとって増村保造の映画とは----人間と出会えるたのしみ、なのである。

  もちろん素晴らしい映画にはいつも素晴らしい人間がいる。

  しかし、増村保造の映画とは、そんな一般的な意味での魅力ある人間とは違った、

  文字通りこの日本の雑駁な現象のなかにあって、いまも何処かでたったひとり、

  自らの非力を顧みず憤りや腹立ちを梃子 に、いわば「てやんでぇ!」とでもいった想いでコトに挑んでいる人間、

  他の何よりも自らの心を行動の基準に置いている人間----そんなハダカ の心に触れる歓び 、

  ----それが、増村映画の大きなたのしみ、なのである。

  たしかに、世間の思惑を道徳の基準に置く伝統 的な風土へ、そうしたタテマエを吹っ飛ばし、

  ホンネだけを真ッ正面から主張する人間を放り込んだ気味のある氏の映画の登場人物は、

  それまでの日本映画にとってきわめて奇異・異形な人種の誕生といってよかった。

  たとえば「女体」(’69)のヒロイン浅丘ルリ子の場合。----彼女の行動基準にはいかなる制御もな い。

  ただ明快な欲望とそれを実現する手立てがあるばかりだ。伝統的な美意識である余韻や情緒はハナから

  かけらも無し、反省や逡巡といった理知の力も、てんで歯牙にもかけぬ。

  気に入った男がいれば相手に家族がいようが夜更けていようが会いに出かけ、

  飽きればすぐ次の男を追いかける。

                    どう贔屓目に見ても、軽薄な尻軽女、節操や義務など薬にしたくもない。

 むろん説教など野暮を超えている。

 こういう類の登場人物を評して、ひとりよがりの、現実にいるのいないの、

 唐突得手勝手説得力に 欠けるのと、エネルギッシュな生命力に辟易した形で

 一方的な裁断を下されてきたのが、ほぼ増村映画 の運命だった、といえるだろう。

 しかし氏は出発にあたって「ある弁明」「新人作家の主張」という 、

 自らの映画造りのマニフェストを放ち 、その後の氏の路線を明文化することによって

 在来行われてきた批評? (というべか!)からも実は自由であるので

  ----文中、日本映画の主流を占めその結果としてのベストテン映画のことごとくを<私の趣味ではない>

  ともしているのだ。 

  因みに氏の映画がベストテン入りをしたのはキネマ旬報選出に限って見ても、「巨人と玩具」(’58年)10位、

  「華岡青洲の妻」(’67年)5位、「大地の子守唄」(’76年)3位、「曽根崎心中」(’78年)2位、全57作品のうち4本、

  しかも「華岡青洲の妻」「曽根崎心中」は、これを推奨しなくては見識を疑われる類の文芸映画で、

  増村映画の本質からははるか遠いところで評価を受けたに過ぎず、「巨人と玩具」 の入賞はデヴュー5作目の

  いわば新人賞、唯一「大地の子守唄」は増村映画の正統の嫡子を主張し得る傑作だが、

  これは広義の時代ものの古典ともいえるので、氏の塵埃にまみれた現代風俗映画が一方に置いてけぼりなのは、

  はなはだ片手落ちといわねば成らない。 

  そこで私の役目は、現代風俗映画の賞揚、ということになる。

 

2、人間の培養実験室/関係に癒着しない終幕の引き方

       

  もともと増村保造は映画という空間を<人間>の培養実験室と化しているので、 人間の欲望の諸相、

  人間の観念の諸相、総じて人間の生命力の諸相を、 あらゆる現実の中で捉える試みが、

  氏の映画であったといっていいのである。

   先の「女体」に戻れば、この浅丘ルリ子が現代の制約のなかで、どこまで可能であるかの、これは実験なのである。

  現実にこのタイプが許されないなら、ひとまず存在させることによって見えてくる世界の諸相

  ----それが映画のテーゼであった。

   最後、ガス漏れした風呂場に気を失うヒロイン、その場を去り思い直したように公衆電話から呼びかける岡田英次、

  虚しく鳴り響く呼びリン ----そこには壮麗な現代の挽歌が潜められていた筈なのである。

  岡田英次は時代の道案内人であり、川津裕介や伊藤孝雄はヒロインがより判然と<人間>を主張 するための

  触媒と呼べるだろうか。

  人間は死に瀕している。人間への興味を捨てない岡田英次は最後の必死な呼びかけを試みる。

  意識を失った<人間>と、そのかたわらでこだまする呼びリンに、映画の万感が込められた絵図である。

  それまで浅丘ルリ子の振舞いは、まことに得手勝手、ひとを人とも思わぬ強引さ、箸にも棒にもかからぬ自己中心、

  と感じて辟易することはあっても、これが人間らしい人間とは?----と思うのが映画をお話でしか読めぬ感受性

  ----もっとも増村映画はまだまだ先進のメカに溢れ過ぎていたかもしれないのである。

  そこで実にシンプル、増村映画のエキスとでもいうべき一篇を紹介しよう。「大悪党」(’68)である。

  登場人物はほとんど3人。

   緑魔子=失恋女子学生、佐藤慶=ヤクザ、田宮二郎=悪徳弁護士。この、 3人。

  まずボウリング場で男友達に別れ話を持ち出されてメソメソ涙ぐんでいる女子学生がいる。

  その様子 をねらいを定めるように凝視めるヤクザがいる。

  慰めるリをして近づくヤクザが睡眠薬を水割りに混入し、

    朦朧となる女子学生を自宅マンションに暴行軟禁する、映画の発端である。

  殴る蹴るは日常茶飯、暇もあらばこそ客を取れ、と言う、身を以って知るヤクザの支離滅裂の怖さ である。

  ふだん許される格好はスリップ1枚、とても逃げおおせる相手ではないと見て、コートを羽織るだけの姿で

  弁護士のところに駆け込む。

  <一生離れぬ相手だ。本当に逃げ出したいんなら逃げ出す方法はひとつだ。そのゴロツキを殺すし かない。

  殺したら、またやって来なさい。 その時は----俺が、無罪にする>

  何の苦労もなく洋裁学校に通う箱入り娘が一挙に鳥瞰してしまった、これが世界の構図だ。

  食うか 食われるか、生きんがため時に人は獣以上の毒と牙を研いで、人間に襲いかかる。自立などと言っても、

  偶然、家族や社会の慣習に無難に守られているに過ぎない。

   それらいっさいを剥いでみたらどうだ! ----これが増村映画をホンネのドラマとする起点だ。

  女子学生は酔いつぶれたヤクザをネクタイで絞殺する。1本のネクタイは途中で千切れ、

  ヤクザが 息を吹き返さんばかりにうめき、洋服ダンスにネクタイを探しに走るスリリングな描写は、

  女子学生対ヤクザの、生死を賭けた真剣勝負の趣を呈する。

  すぐさま弁護士のもとに駆けつけると、現場にもうひとり別な男がいたという工作を指示される。

  検事の追求に耐えながら裁判を必死で 乗り切ろうという時「私たちの嘘、最後までわからないかしら?」

  という不安に、「君、現代は嘘の時代さ。テレビのコマーシャルから政治家の発言まで、ひとつ残らず嘘なんだ。

  それに比べたらわれわれの嘘なんて可愛いね」と、答える弁護士の、明確なしたたかさ。

  ヒロインにとって弁護士はメフィストフェレス、世界の見取図を完璧に案内する先生であって、

  観客は緑魔子と共に、テクノロジイの前に黒を白とする現実を目の当たりにするのである。

  しかも映画がさらに綿密なのは、そのメフィストが別件で取得した500万を逆に緑魔子が恐喝するくだりである。

  「私は一事不再理、二度と被告にならないけど、先生の方は大変よ。現場を偽装した上に、

  裁判所を騙したんですもの。弁護士の資格を取られて、刑務所に入れられるわね。そうでしょ」

  ここにはファーストシーンにいた涙ぐむ女子学生とは別人の、500万を手にして颯爽と風を切る、

  逞 しくも猛々しい一人の女がいる。

    増村映画の優れて手応えのある美点は、関係に癒着しない終幕の引き方である。

  たとえば「でんきくらげ」(’70)もまた<一緒に生きよう>という川津裕介に<あなたは一度私を捨てたわ。

  今度は私が捨てる番よ>と渥美マリは独り生きる強さを示すのである。

  かつて*季刊フィルム*誌の特集、”日本映画をどうする”のインタビューに

  「女を描くために女を描 いているのではない。人間を描くために女を描いているのだ」という氏の言葉を

  待つまでもなく、女というより人間の勁さをこそ、氏は明示し続けてきた、と言ったらいいのか。

 

3、人間への蘇生の物語/脇も存分に生を主張

    

  思えば「暖流」(’57)で<情婦でも2号でもいいから待ってるわョオ!>と、

  左幸子に駅の改札口で絶叫させてから、ヒロインたちの強靭で鮮烈な個性はいささかも色褪せることがない。

   「女体」の浅丘ルリ子、「大悪党」の緑魔子は言うに及ばず、「でんきくらげ」「しびれくらげ」(’70)の渥美マリ、

   「やくざ絶唱」の大谷直子・太地喜和子「セックスチェック/第二の性」(’68)の安田道代

  ----思い出すままに述べればきりなく、なかでも極め付け、

  若尾文子の代表作はことごとく増村映画に集中 している、と言っていいのだ。

  「青空娘」(’57)に始まって、忘れ難い作品を列挙すれば「偽大学生」(’60)

  「妻は告白する」(’61)「女の小箱/夫が見た」(’64)「卍」(’64)

  「清作の妻」(’65)「妻二人」(’67)「濡れた二人」(’68) 「千羽鶴」(’69)と、出演作品は総計20本を数える。

  しかし、もしかすると、増村保造はたったひとつのタイプを、

  それも<人間>という類型を描いてきたに過ぎぬのかもしれないのだ。

   「偽大学生」のラスト、捕えられてなお牢獄で、<敵を殺せ!敵を殺せ!>と駆け回るジェリー藤尾を

  小窓越しに見て<新型のきちがいですかね?>とつぶやく看守たち。

  無論それは唯一の<人間>が牢獄に 繋がれている、恐るべき暗喩ででもあったのだけれども----。  

  だが不幸なことに、これら数々の快作!(としか言いようがない)も、

  ほとんど映画ジャーナリズムの前を素通りしてきたかに見える。

  某女史などが<勝手気ままな浮気妻のお遊び>にしか読めなかった「濡れた二人」もまた、

  <人間>への蘇生の物語である。

  四六時中仕事にしか余念のない夫と、人間らしい息抜きを求める妻との、どこにもある食い違い、

  そこへ割って入る地方の若者。

  ----週刊誌の風俗記事も増村保造の手にかかれば時代の感受性を明敏にあとづけることになるのだ。

  ちょうどスタンダールが三面記事を 「赤と黒」という小説に作り変えたように。

  事実、ヒロイン若尾文子の浮気?の相手北大路欣也が、都会へ帰ろうとする若尾を引き止めるが ごとく、

  バスの周囲を幾度も幾度も爆音と砂埃を上げながらオートバイで二巡三巡するシーンには、「でんきくらげ」の

  遺産獲得のための、川津裕介と渥美マリの子造り回転ベッドシーンと双璧の、

    まぎれもない現代日本の情念が渦を巻いていたのだ。

    しかもこの若者北大路欣也と人妻若尾文子とのアヴァンチュールの あいだに、同じ漁師仲間、

    社長 に拾われた孤児である平泉征が、 北大路の許婚者/渚まゆみを暴行するくだりを用意して、

   階層の逆流する複合性をも見せつけるのである。

  暴行される渚の、眼をかっきり見開き天を仰いでこらえる様も喝采!なら、

  日頃馬鹿にされ冷や飯を食い続けた平泉征、一寸の虫にも五分の魂といったでその場を立ち去る姿、

  それぞれに逞しさが横溢してぞっこんにイイのである。

  増村映画の魅力のなかでも、この脇に甘んじながら存分に生を主張する猛々しさ、主役を食うほど で

  「黒の試走車」(’62)の上田吉二郎、「でんきくらげ」の西村晃は、当然の巧技としても、

  「曾根崎心中」で一番生き生きして憎々しく、かえって宇崎竜童の徳兵衛が間抜けに見えて仕方なかったのは、

  油屋九平次の橋本功であった。                        

  それもこれも、社会のことわりは所詮、不公平不平等不分明、ならばその枠など超えて当然、

  むしろ逆境こそがばねとなるような人の生きざまに視坐を据えて、

  増村映画は、世間という公約数の眼を跳ね返してきた、と言っていいのである。

 

4、その特性/イタリア的情熱の価値的移植の試み

      

  増村映画の人物群像の、こうしたいわば<特性>は、イタリア国立映画センター出身である氏の、

  自ずからなるバックボーンと見ていいが、氏自身による<解題>とも読める文章があるので、

   少し長くなるが、次に引用したい。表題は「ヴィスコンティ論」である。

 

          イタリア人の情熱は、不用に屈折したり倒錯しない。溶岩のように隙間から噴き出し、

          どろどろ流れて焼きただれ、火花と煙りを吹き散らし、燃え尽きて死滅し、冷たい岩となり果てる。

          動物のように単純で率直で真実である。他のヨーロッパ 人のように知性で調節したり、技巧で飾ったり、

          ユーモアで茶化したり、あきらめて退却したりしない。野暮な田舎者のように、ただ真一文字に前進する。

          しかし、それはイタリア人が馬鹿だからではない。

         むしろ外国人より賢く、愛の重要さを知っているからである。長い歴史の辛酸の中で、

     権力、金、名誉、その他の世俗的な価値がいかに空虚で無力なものであるか、腹の底から承知していて、

    愛だけが、いついかなる時でも

     絶対確かなものと信じているからである。愛のためなら財産も捨てよう、殺人も犯そう、

    自己自身をさえ破壊しても平気なのである。

    それは若者の未熟な情熱でなくて、むしろ老人の必死の愛に近い。

    死期の迫っ ている人間にとって、地位や金はまったく必要ない。

    眼前に輝く愛だけは手放したくない。死にもの狂いで愛にとりすがり、しがみついて、頑固に手放さないのである。

         かくも思いつめたイタリア人の愛はどこか暗く、執念じみた、おそろしさにみ ちている。

         憎悪は愛の裏返しだから、これはまた一段と凄まじく、どす黒い殺意にすぐ転化して、

    それこそ容赦のない復讐となる。死の迫った老人にとって、遠慮し気づかうものは何にもないの である。

                                           (キネマ旬報社「世界の映画作家4」より)

 

  この一文は、ヴィスコンティを語りながら、氏の指向、氏の趣味、氏の内実を吐露した、

  私には興味の尽きない一節なのである。

   何故かと言えば、氏の全業績はこのイタリア人の情熱の我が風土への、飽くことのない価値的移植の試み、

  だからである。

  もとより増村映画の人物像への一部の重ねられてきた拒否反応は、氏にとって予想し得た現象で あったに違いない。

  それは笑止な、というより批評以前の、立脚する地平の相違なのだから、問答にならぬのである。

  同じ「ヴィスコンティ論」のなかで、さらに次のようなセンテンスも見出すことができる。

 

    (イタリア人の)愛は燃え出したら最後相手が裏切ろうと捨てようと果てしなく続くものである。

    この執念深い頑固さは、われわれにはただ異様に見え、時代がかった大芝居のようである。

 

  がしかし、増村保造はその異様な大芝居の世界を繰り返し現出せしめてきたのだ。

  その最極北に 位置するのが「妻は告白する」であり、「清作の妻」である。

  前者には亡き山川方夫氏の優れた一文(冬樹社「日本映画理論体系」所収)があるので、

  ここでは後者の「清作の妻」に触れてみたい。

 

5、自由へのたった一人の反乱/確固たる署名入りの宇宙

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  初期の「暖流」や「親不孝通り」('58)の、断続するカッティング、弾丸のように早口で発射されるセリフ、

   ほとばしるような力感−−−−といった華やいだ活力こそここには影を潜めていて、

  むしろ 緊密重厚な語り口は「夫が見た」「卍」の出口なしの晦渋さを通過したあとだっただけに、

  一条の光が差す厳粛な喜びを感じたことを覚えている。

  それは戦時中、早朝の鐘を村一番の早起きで撞く、自他ともに認める模範青年が、

  社会の中に位置づけ誇りとしていた自分から、自らの <内なる社会>に目覚めていく道程である。

  一億玉砕の時代に<個人>としての自己の誕生を知る男の物語なのである。

  冒頭、清作(田村高広)が樹に登って村を見下ろす位置で鐘を鳴らすシーンから、

  終幕、盲いた 清作が妻とともに畑に鋤を振り下ろすシーン までの時間に、

  実に<日本>という土壌が掘り返されているのだ。

  清作が村の青年の鏡−−−−であったとすればその妻は(名前がない!若尾文子)、かつて老人 の囲われもの、

  蔑まれ疎まれ村八分同然の身の上を、老人の死後、生活にも事欠く女を清作が助力する、

  そんなきっかけである。女にとって清作は唯一絶対の信頼の対象、

  文字どおり生きるよすが、清作が見捨てることは、生活の糧を失うことに等しい。

  だが、一緒になってまもなく、再び女の危機が訪れる。清作への召集令状の通知である。

  清作は村に聞こえた質実剛毅、否やがあろうはずもない。しかし、女には取り残されたあとの行く末が恐怖ある。

  清作がいてさえ陰口意地悪の絶えない村人が、一人残った女にする仕打ちは目に見える。

  情況は、老人の死の直後と、いささかも変わらぬだろう−−−−思い余って、女は清作の出征の 前夜、

  内祝いに湧く周囲の様子とは正反対の心地で、清作の両眼をかんざしで突く。

  戦地へなどやってなるか、何の権利があって私の生活をメチャメチャにするんだ、

  という怒りとふてぶてしいまでの意地の錯雑−−−−。

  村人たちは騒然となって清作に女の処分を迫る。だが、その時、清作は言うのだ。

  <妻を生かすも殺すも、俺の自由だ> と。

  自由ということばが百鬼夜行している今日、いったいどこでこんな自由の力感と誇りを併せ持ったことばの響きを

  聞くことができるだろう。

  ここで清作はあきらかに対峙したのだ。妻をも含めた世界の極の極、その極点のなかで盲いた清作は、

  たぶんやっと光を見たのだ。妻とともに畑に出て鋤を振り下ろすラストショットが鮮烈に見えるのは、

  その光を共有したもののみが味わえる至福なのである。

  光、などといえば抽象的だが、増村保造が造ってきた映画の数々はいつも<たった一人の反乱> を辿るところに

  あり、しかもその反乱は、手ぬるく仲間や同胞を作らず 、共闘などもしないところに最大の特色があるので、

  それを等しく共有するようにだから映画は創られていず、むしろ主人公の存在へ両刃の剣、

  −−−−その内に自己批評すら含んだ存在であるから、それを光としか言いようもない のである。

  (観客とて迂闊にカタルシスに耽る訳にはいかぬのである)

     いわば、増村保造の映画は、映画全体が正しく増村保造の署名入りの宇宙であり、

  それはイタリア的情熱という独自のレンズを通した 文明批評の趣を呈し、時代と、主人公に体現された、

  在るべきイタリア的情熱との相克を軸に表示される人間の生態こそ、氏の企図してきたことに違いないのである。

  その企図はきわめて特異で独自な世界をもたらし、「盲獣」(’69)というような虚無と夢想の充満した 奇作をも

  生んでいるが、観客はそこで外科手術現場に立ち合うがごとき震撼に襲われるのである。

     この上、いかなる手術現場を見たいかといえば、バルザック「従妹ベット」の好色のお化けというべき

  ユロ・デルヴィ男爵の翻案を三国錬太郎主演でというのはどうだろう。

  このポルノグラフィにもなり得、社会階層の重層的な構図からいえば存分にスケールの大きい社会ドラマにもなり、

  中心となるユロ・ デルヴィは人間ここまで好色に溺れればもう賛嘆、それはエネルギッシュな生命力というしかなくて、

  その好色と爛熟の極みとなった現代文明との対峙には壮麗雄渾の一大絵巻が期待できようではな いか。

                                                 完。 増村保造DVD作品総覧

 

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